グイノ・ジェラール神父の説教
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年間第12主日
年間第2主日 A年 2017年1月15日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ49,3、5-6 1コリント1,1-3 ヨハネ1,29-34
「わたしは見た…わたしは聞いた…わたしよりも先におられた方…わたしは見たことについて証ししています…この方こそ神の子であると証ししています」と言った洗礼者ヨハネの言葉を聞くと、聖ヨハネの個人の証しを私は聞き分けます。それは彼が自分の手紙の中で同じ言葉を使っていることです。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えて証しします…それはあなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(参照:1ヨハネ1,1-3)。
私たちがイエスをよく見て、彼の言葉に耳を傾け、神の霊が私たちを満たすように、洗礼者ヨハネと聖ヨハネは今日私たちを招いています。というのは神の子イエスは父なる神への道に私たちを導きますから。今、私たちが歌ったばかりのアレルヤ唱は、次のことを述べ伝えています。「アレルヤ、アレルヤ。みことばは人となり、わたしたちのうちにお住みになった。主を受け入れる人には神の子となる恵みが与えられた。アレルヤ」と。
神の小羊であるイエスは、父なる神のいつくしみと愛の計り知れない神秘に私たちを入らせようとします。父なる神が昔アブラハムとその子孫に約束されたことをイエスは実現するために来られました。昔、預言者たちが告げたように、神の子であるイエスは、罪と死から私たちを解放するために来られました。
「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった…彼は自らの苦しみを抜け出して光を見、その悟りによって満足する。わたしの僕は、多くの者を正しい者とされるために。 彼らの罪を自ら負った」(参照:イザヤ53,7、11)と言った預言者イザヤの預言の実現を、洗礼者ヨハネはイエスのうちに見分けました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と洗礼者ヨハネは断言します。罪によって傷つけられ、神の似姿を失っている全人類に近寄る神ご自身を、洗礼者ヨハネはイエスのうちに見分けました。そして、洗礼者ヨハネは、キリストが私たちに神の子としての美しさと威厳を取り戻すために来られたことを理解し、宣言します。
世の罪を取り除くイエスは、聖霊によって洗礼を授けるお方です。それは、私たちが神に向かって、「アッバ、父よ」(参照:ガラテヤ4,6)と言うことができるためです。確かに聖霊で満たされている私たちは、預言者イザヤと共に次のように強く主張することができます。「主の御目にわたしたちは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」(イザヤ49,5、第一朗読)と。聖パウロがコリントの信徒への手紙で教えているように、この同じ聖霊こそ私たちを一致させ、聖化し、そして神の恵みと平和のうちに私たちを守る方です(1コリント1,2-3、第二朗読)。
ミサ祭儀に与るたびに、洗礼者ヨハネが行ったように、司祭はキリストの御体(御聖体)を私たちに見せながら次のように宣言します。「世の罪を取り除く、神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と。この言葉を耳にするなら、熱意をもって心の底から次のように答えましょう。「私は信じ、証ししています。司祭の手に私が見る聖体はこれこそ主イエスであり、私の救い主であり、私の神であることを信じます。私が見ているこの聖体を私自身のうちにしっかりと受け止めるように強く望んでいます。この聖体こそ、私を救い、癒し、永遠の命まで導く神の子であるイエスご自身ですから。私は信じ、証ししています。イエスこそが、父なる神の方へ私たちを喜びのうちに導く命の道であることを。」アーメン。
年間第3主日 A年 2017年1月22日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ8,23-9,3 1コリント1,10-13,17 マタイ4,12-23
洗礼者ヨハネの人々を悔い改めに導く預言の時は終わりました。 いよいよ、イエスの福音宣教の時が始まります。 洗礼者ヨハネと同じように「心の回心」を要求するイエスは、一人で自分の使命を果たすことを望みませんでした。 イエスは神の国を告げるために、一緒に働く人々を選びました。 誰よりもまず、ヨハネ、アンドレ、ペトロとヤコブでした。
今日は、人に与えられている召し出し、神の呼びかけの意味と目的について考えましょう。 召し出しとは、神が大勢の人の中からほんの少しの人を選択する、その結果ではありません。 なぜなら、召し出しは全ての人に関するものですから、私たち一人ひとりは、世の救いのために神と親密に生きるように召されています。 そしてまた、召し出しは呼ばれた人の自由を守ります。 なぜなら、召された人は自分の行いの責任を引き受けるからです。 というのは、神に「はい」と言っても、人はいつでも「いいえ」と言う自由を持ち続けています。 確かに福音全体を通して、イエスは人々に「よろしければそうしなさい…しかし、あなたはいつでも自由です」と勧めています。
イエスと共に歩みながら「はい」と言った人は、自分の人生に対する神の計画が何であるかを少しずつ理解できるのです。 しかしその人は、決して自分の歩む道に図面を引いた真っ直ぐな広い道は発見できません。 キリストの後に従った弟子たちは、自分たちの道に十字架と迫害が置かれていることを知りませんでした。 終わりまでイエスに従いたいという望みと、自分たちの自由を用いることによって、弟子たちは復活の喜びと共にキリストに属する光栄を深く味わうでしょう。
同時に、弟子たちは「人間をとる漁師」となることの意味を理解するでしょう。 「人間をとる漁師」とは、勧誘して人々を教会に引きつけることではありません。 むしろ、イエスの全生涯が私たちに見せて、現わしているように、貧しい人や差別されている人、病人や苦しんでいる人、谷間にいる人のレベルにまで低くなることです。
ご存じのようにイスラエルの民にとって「海」は非常に危ない所でした。 イエスの弟子たちにとっても「海」は悪霊たちが住む場所、意味のない世界であり、無と死の世界でした。 イエスがペトロと彼の仲間たちに「あなたがたは人間をとる漁師になる」と言った時、それは「今から、あなたがたは 暗闇、不幸と死の支配からの解放を必要とする人々を自由にして救うのです。 つまりあなた方は、人々が生きるように、彼らが自由を取り戻すように、私と共に働く弟子たちとなる」ということを、イエスは言っています。 「人間をとる漁師」は失われた羊を探し、病人を癒し、悪霊を追い出し、人を慰め、人を赦します。
これこそが、イエスが自分の弟子たちと共に始めた使命でした。 そして、今日でもイエスはこの使命を私たちと共に行い続けています。 「近づく神の国」とは、全ての人が罪、悪、死から救われるために働いておられる神ご自身の不思議な業です。 神のいつくしみがその目的に到達するように「神を助けること」だけが、私たちの使命と召し出しです。 傷つき、苦しみ嘆き叫ぶこの世界を癒すために、その協力者として私たち一人ひとりは神に呼ばれています。 しかし「人間をとる漁師」になるためには、私たちは絶えず神に向かって心を回心する必要があります。
神と自分自身、あるいは他の人々と和解するなら、私たちは「暗闇と死の陰に住んでいる人々」(参照:イザヤ9,1とルカ1,79)を照らすことができます。 聖霊がこの世界の上に神の無限のいつくしみを注ぎ、この世界を新たにし聖化するように、私たちに委ねられた召し出しによって、聖霊を助けましょう。 そうすれば必ず私たちの上に大きな光が輝き、私たちを「主に結ばれている光の子」(参照:エフェソ5,8)とするでしょう。 アーメン。
年間第4主日A年 2017年1月29日 グイノ・ジェラール神父
ゼファニア2,3、3,12-13 1コリント1,26-31 マタイ5,1-12
「あなたがたは神によって召されたものです。 よく見なさい」と聖パウロがコリント教会の信徒に願っています。 今日この誘いが私たちに与えられているのです。 この勧めにイエスご自身の忠告を加えることの大切さを理解しましょう。 イエスは「わたしの言うことをよく聞きなさい」と言っています。 確かに7回繰り返してイエスはあなた方が幸いと言います。 それは、神ご自身が召された人々に与える幸せに、私たちを引き寄せるためです。 神の愛が力強く人の弱さの中に現れることを証しするために、私たちはコリント教会の信徒と同じように召されています。 大切なことは、自分の弱さを見ることではなく、効果的に働く神の力を見分けることですと、聖パウロは忠告します。 「誇る者は主に誇れ」神は強い者を恥じ入らせるからです。
パウロの勧めを実現するために、先ず預言者ゼファニアの勧めを実行するべきです。「主を求めよ。 正義を求め。 謙遜を求めよ」(参照:フランシスコ会訳)と、ゼファニアは勧めています。 主を探し求める人は必ず心の貧しい人、正義に飢え渇く人、平和を実現する人となります。 心を尽くして神を探し求める人は、慰めを受け、神がその人の中に注ぐ柔和と清さと憐れみを言葉と行いによって現します。 しかし、私たちは神を探し求める望みを失っていないでしょうか。 顔と顔を合わせて神を見るために、私たちは神を見つける意志を持っているでしょうか。 迫害の恐れ、自分の信仰のために嘲笑らわれる者になる恐怖のせいで、私たちは神の愛する子供として公に生きることを妨げられていないでしょうか。
しかし、もし私たちが今神の国に入りたいと望むなら、私たちは幸せです。 イエスは真の幸せのレシピを7回与えました。 私たちの父である神の愛を啓示したイエスは、永遠の幸福を受ける前に、この地上で幸せに生きることを教えるために来られました。 結局、真の幸せは神ご自身です。 そのために謙遜に神を探し求めなければなりません。 無限の幸せに辿り着くために、神への信頼、柔和、憐れみと正義など最も必要です。
さらにミサ祭儀に参加することによって、イエスが受難と十字架上の死によって与えた永遠の幸せを私たちは早めに受け取ります。 ご自分の死と復活によって、イエスは私たちを神と和解させました。 私たちのためにイエスは天の門を大きく開きました。 キリストの御体と御血をいただくことによって、私たちの内に神ご自身の命を育て成長させます。 洗礼の時に受けた聖霊によって、確かに私たちはキリストに一致して、その中に組み込まれます。 確かにご自分と共に永遠に生きるために、神に召された私たちは本当に幸せです。 イエスの教えを支えとして神を求め、見つけることができるので、私たちは本当に幸せです。 父なる神の愛する子供であることは何という幸せでしょう。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5,5)私たちは何と幸せな人でしょう。 アーメン。
年間第5主日 A年 2017年2月5日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 58,7-10 1コリント2,1-5 マタイ5,13-16
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエスは断言しました。私たちは他の人々よりも優れた人ではありません。しかし、素晴らしい宝物をいただきました。神から受けたこの宝物を私たちは誰かと分かち合う義務とそれを証しする喜びの責任を持っています。この宝物とは神のみ言葉です。それはまた、み言葉によって私たちに留まる神ご自身です。父と子と聖霊として、神は私たちの心に住みに来られます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14,23)とイエスは確約しました。
わたしたちが神と共に生きている証しを、全ての人に慎み深く与えなければなりません。「わたしたちの光は曙のように射し出なければならない」と預言者イザヤは私たちに思い起こさせます。強すぎる光は眩しく、目がくらみます。塩けの多い食事は食べられません。塩も光も節度を持って使う時に、本当の素晴らしさを上手に現します。確かに、光があってもなくても、町は存在します。しかし、街灯や様々なイルミネーションのお陰で町はもっと魅力的になります。同時に塩をかける前に食べ物はあります。しかし、ほんの少しの塩をかけると、この食べ物の味はもっと美味しくなります。塩と光が、物事の美しさや風味を良く現すように、キリストの証人として、また神の子として私たちはこの世を美しくする使命と、住み良い世界を作り上げる責任を持っています。
地の塩であり世の光であることは、優しい柔らかさと細心さで行動する事です。福音宣教は、決して、やかましい宣言ではなく、また世界を騒がせて征服することでもありません。福音宣教は、ただ良い知らせを告げるだけです。なぜなら、神の愛はいつも謙遜に、思いやりの態度で伝えるものですから。コリント教会の信徒に当てて書いた手紙を通して、聖パウロは「そちらに行ったとき、衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と打ち明けました。その中で、キリストの福音を伝えようとしたことを打ち明けました。自分の信仰を伝えるために他のやり方がないからです。
日本のキリスト者はとても少ないですが、この世界を覆う暗闇を照らすために、また人々の生き方に良い味気を取り戻すために、信徒の数は十分です。確かにこの不安な世界に希望をもたらす時に、私たちは地の塩であり世の光です。もしこの暴力と戦争のせいで苦しんでいる世界に平和の言葉を聞かせるなら、私たちは幸せな人です。人を差別し、人々を分裂させ、離れ離れにするこの世界の中で、誰であろうとその人を快く迎える人、思いやりのある人となる事を選び採るなら、私たちは幸せな人です。
本当に、私たちは地の塩であり世の光です。イエスのうちに、イエスと共に私たちは希望と平和と喜びの泉です。この世界の美しさは私たちの心に由来しています。残念ですが、霊的な怠惰のせいで私たちはこの泉が豊かに湧き出ることを防いでしまっています。教皇フランシスコは「喜びの福音」という回勅を通して素晴らしい教えを私たちに与えました。ですからイエスの言葉と聖書の大切な話を再発見しながら、福音が与える喜びをも再発見しましょう。
今日の福音は「あなたがたは地の塩」で始まり、「天の父」と言うキリストの言葉で終わります。このようにして、イエスは天と地の交わりを私たちの心に組み合わせます。もし私たちが受けた洗礼の恵みの風味を守り、受けた信仰のともし火の光を守るなら、ベツレヘムの天使の群れが歌ったメッセージが実現されるのを見るでしょう。そうすれば、平和がこの地を満たし、そして神は、いと高きところで、栄光を全ての人から受けるでしょう。アーメン。
年間第6主日A年 2017年2月12日 グイノ・ジェラール神父
シラ15,15-20 1コリント2,6-10 マタイ5,17-37
知恵のあるシラは、生きることは選ぶことだと教えています。 人は善と悪、生と死、幸福と不幸の間で選ばなければなりません。 私たちは皆良い方、または悪い方の選びが自由にできます。 しかし、私たちが良いものを選ぶように、神はご自分の知恵を与えられたことを聖パウロが私たちに思い起こさせます。 イエスは、モーセに与えられた律法は、道に設置された標識のように安全な道筋だと教えています。 この道から離れた人は、迷ったり、恐ろしい危険にさらされる可能性が高いです。
イエスは律法が完全に行われることを頼むだけではなく、さらにこの律法に新しい要求を加えます。 たとえば、モーセの律法は殺意を禁止し、イエスは怒りを禁止することを加えます。 律法は姦通を禁止し、イエスはみだらな眼差しを持つことも禁止します。 律法は偽りの誓いを禁止し、イエスはすべての誓いを禁止します。 イエスがこのような新しい要求を加えたのは、私たちが天の父のように完全な者となるように望んでいるからです(マタイ5,48)。私たちの人生の目的とは、父なる神と親密に一致しながら神化されることです。 確かに私たちが神の神性に与るために、イエスは私たちの人間性に与りました。 これこそ神の知恵と最高の愛の証拠です。
イエスはモーセの律法を変えませんが、私たちの心を一つにします。 それは、私たちに対して神が持っている愛の計画を私たちが実現するためです。 言い換えれば、私たちが自分のうちに律法を刻むことをイエスは願っています。 そうすれば、分かち合い、赦し、愛徳の行いによって、その律法を外面的に現すことができます。 これこそ心の一致です。
誰でもモーセの律法を行うことができます 。しかし、イエスが願ったようにそれを実現するためには、自分の考えと心を変える必要があり、そして他者と結ばれた関係を新たにすることが要求されています。 イエスは私たちに新しい眼差しを要求します。 この眼差しは、私たちとこの世界に対する神が持っている眼差しと同じ眼差しであるべきです。 私たちのためにイエスは復活の道、そして神化の道を開きました。 イエスと同じように、イエスと共に、イエスのうちに行動するために私たちは聖霊の力を頂きました。 イエスは私たち一人ひとりに光と真理の道を見せ、大きく開いて提案します。 しかし、イエスに従ってこの道を歩むかどうかについては、各自はいつも自由です。
罪をはっきり示し、罪びとを裁く「律法のくびき」からイエスは私たちを解放するために来られました。 そして、律法の軛の代わりに尊敬、愛、分かち合いで満たされている掟を提案します。その掟の前で、罪びとが愛され赦されていることを強く感じます。 モーセの律法は従順であることを命令します。 イエスが提案する掟のおかげで、神の恵みが私たちのうちに自由に働き、私たちの利益のために行動させます。 モーセの律法は人を厳しく裁きますが、イエスの掟は人を赦し、生かし、聖化し、神化させます。 ローマ人への手紙の中で、モーセの律法が人に救いを与えることが全くできないことを、聖パウロは詳しく長々と説明しています。 しかし、イエスが提案する掟は、愛といつくしみと赦しで満たされているので、私たちは完全に救われます。
「わたしが来たのは、命を与えるため、しかも豊かに与えるためである」(参照:ヨハネ10,10)とイエスは言いました。 イエスこそが道、真理、命です。 洗礼を受けた時から、イエスと共に私たちは命の道を歩くことを選びました。 ですから、イエスの掟と教えが私たちを照らし、安全に永遠の幸せまで導きますように。 アーメン。
年間第7主日A年 2017年2月19日 グイノ・ジェラール神父
レビ記19,1-2、17-18 1コリント3,16-23 マタイ5,38-48
「柔和な人々は、幸い、その人たちは地を受け継ぐ」(参照:マタイ5,5)とイエスは宣言しました。 イエスは私たちに自分たちの敵を愛しながら、善をもって悪に勝つことができるように願っています。 確かに、悪に悪をもって勝とうとする人は、この世をもっと悪くすることを私たちは良く知っています。 それよりも、誰かが人を赦す時、神の国が近寄り、憎しみや復讐や軽蔑の暗闇は追い散らされています。
イエスはモーセの律法の教えをくつがえすことによって、私たちの愛と信仰を奮い立たせるつもりです。 父なる神が「完全であられるように」赦すこと、侮辱を耐え忍ぶこと、敵を愛することは私たちを完全な人間に変化させます。 憎しみを否定して愛を選ぶことは「光の子」として「キリストの弟子」として行うことです。 特にそれは神が自分の子供たちに与える知恵の証しを具現化することです。 モーセの律法に新しい息吹を与えることによって、聖霊が私たちのうちに神の知恵を注ぐように、イエスは強く望んでいます。 聖パウロが教えているように人間的な論理と言い訳や世間の知恵は「神の前でただ愚かなもの」(1コリント3,18)だけです。
神が完全であられるように自分も完全になること(参照:マタイ5,48)、神が聖なる方であられるように、自分自身も聖なる者となる(参照:レビ記19,2)こと、この2つはモーセの律法とイエスの教えが私たちに提案しています。 勿論この提案は自己愛や感情や恨みや復讐に大きな場所を与える人間の知恵に逆らっています。 この世の賢い者は、受けた悪に対して復讐し、悪い者がそれ以上の悪事を加えないように一生懸命に努力します。 しかし神の知恵は私たちに忍耐と、赦し、そして悪い者のために祈ることを要求しています。 この神の知恵を実践する時、神は速やかに私たちに代わって行い、私たちの利益になるように働き、私たちを守ることを可能にします。 神の手に全てを委ねること、これこそ完全と聖性に導く第一歩です。
勿論、悪の問題を無視することをイエスは勧めません。 悪人は自分の生涯の終わりまで悪人に留まる可能性があるとイエスはよく知っています。 そう言う訳で、悪人のために祈る必要があります。 神は良いお方であられるように、私たちも良い人間にならなければなりません。 「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ことをイエスは私たちに思い起こさせました。 神は、諦めずに忍耐強く良いことを行い続けるのです。 ある人々が悪いからと言って、神は決して彼らを滅ぼしません。 正しい人にも正しくない人にも、神は必要なものを与え続けるからです。
「目に見えない神の目に見える姿」であるイエスは、どのように父なる神が行うのか、神の憐れみ深い態度を教え、また悪人に対する神の愛といつくしみを私たちに理解させようとします。 またイエスは自分の全生涯を通して、特に自分の受難を通してそれを説明しようとしました。 「だれもわたしの命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを与える」(参照:ヨハネ10,18)とイエスは言いました。 心から人を赦すことによって、悪人のために祈ることによって、また全てを忍耐することによって、自分の命を与えるイエスに倣いましょう。 そうすれば、私たちは真にイエスの弟子たちであることをはっきりと示すことができるのです。 聖霊の助けによって後ろを見ずに、父なる神の眼差しのもとで、愛の完成への道を真っ直ぐに歩みましょう。 アーメン。
年間第8主日A年 2017年2月26日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ49,14-15 1コリント4,1-5 マタイ6,24-34
「自分の命のことで思い悩むな」と今日イエスは私たちに納得させます。 しかし私たちの間に全く思い悩まない人がいるなどとは、私は考えません。 体の健康の心配、物質的な物の不足、お金の欠如、将来についての悩み、あらゆることに関して気がかりなことは絶えず私たちを襲ってきます。 「父なる神は空の鳥を養い、野の花の世話をする」とイエスは私達を慰めようとして、神が全てを養っておられることを話します。しかし神の恵みを受けても、蜜蜂や蟻、リスなどの動物たちが冬の食料の蓄えをすることを私たちは良く知っています。 私たち哀れな人間もこの動物たちに似ています。 それでも、自然に来るべき試練や思いがけない時のために、私たちは色んなものを準備して備えようとします。
そこで、私たちはイエスの言葉を慎重に考えるべきです。 今日の福音を通して、イエスは5回繰り返して「思い悩むな」と言っています。 この命令は「仕える」と「求める」と言う言葉で囲まれています。 ですから次の三つの質問に答えましょう。 @「何のために、誰のために思い悩んでいるでしょうか」。 A「誰に、そして何のために仕えているでしょうか」。 B「実際に何を求めているでしょうか」。 この三つの質問にイエスは的確に答えました。 それでは、その答えを見てみましょう。
第1の質問にイエスは次のように答えます。 「あなたたちは物質的な物や食料や飲み物また着る服、あるいは自分の体のことで思い悩んでいます。 これらのことで心配することは理不尽なことです。 あなたたちが持っている心配事や物事の欠如の恐れは、あなたたちの信仰と敵対します。 あなたたちは父なる神をよく理解していないので、このような恐れや心配があなたたちを襲ってきます。 神の摂理を信頼し、それを受けるよりもあなたたちは自分の力や自分のやり方に寄り頼んでいるのです。 もう一度、預言者イザヤの言葉に耳を傾けなさい。 父なる神は自らが創造したあなたたちを決して忘れることも無視することもできません」。 私たちの命は安全に父なる神の手の中に置かれていると、主イエスは私たちに思い起こさせます。
「誰に、そして何のために仕えているでしょうか」という第2の質問にイエスは次のように答えます。 「神と富とに仕えることはできません。 毎日お金を使って必要なものを買っても、気をつけないとそのお金があなたたちを支配する力になってしまう危険性があります。 本当に値打ちのあるものは、お金ではなくあなたたち自身です。 神の目には、あなたたちは値高く、貴く愛されています(参照:イザヤ43,4)。 お金と富の力が人々の間に分裂をもたらし、人々の心を固く冷たくするのです」。そこでイエスは私たちに忠告します。 神に属する神の愛する子供として、私たちの人生と体の健康、そして、その体のニーズに対して、いつもいつくしみ深い父に寄り頼むことが第一です。 それを実現するためには、神に対する私たちの眼差しを新たにし、神の摂理に対して正しい知識を持つことは必須条件です。
「実際に何を求めているでしょうか」と言う3番目の質問に、イエスは次のように答えます。 「もっとも大切なものを探し求めなさい。 神自身を求めなさい。 神に仕えるならあなたたちは、全ての悩みに対して自由な人となるでしょう。 そうすればまた神の国にいる聖人たちの考え方、行い方そして愛し方はあなたたち自身の考え方、行い方そして愛し方になるでしょう。 ですから、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、必要なものは全て加えて与えられます」。
結論として、イエスは次のように言いたいのです。 自分たちについて思い悩むことよりも他の人々や父なる神とあなたが結んだ関係について、思い悩む方がよほど良いことです。 これこそが、神の国の義です。 今日、聖パウロも神の義を探し求めるように私たちを誘いました。 「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」(1コリント4,1)と。 私たちがぬきん出て神の国に仕える者になるために、聖霊が全ての悩みから私たちを解放しますように切に祈っております。 アーメン。
年間第12主日 A年 2017年6月25日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ 20,10-13 ローマ 5,12-15 マタイ10,26-33
私たちを憎み、私たちに対する悪事を働く人々を恐れないように、今日預言者エレミヤと主イエスは切に教えています。 神の恵みによって守られ、強められているキリスト者に対して、迫害者や中傷する者たちは何もできません。 なぜなら、洗礼の恵みが私たちに聖霊の力を与え、また私たちを神の家族に属する者とするからです。 確かに私たちは、キリストと共に、罪と死に打ち勝つことのできる神の聖なる民です。 何も恐れずに生きること、そしてその生き方によって、私たちが受けた神の子としての自由を勇敢に宣言するように、神の聖性は私たちを追い立てています。
「人々を恐れてはならない」神について話すことや証しすることは、容易ではないことをイエスは良く知っています。 イエスの後に忠実に歩むことを決心した人は、励みや友情の支え、あるいは好意の印を受けるよりも、預言者エレミヤと同じように無理解、終わりのない試練、人々のあざけりや迫害に出会い、それらに立ち向かうことが必要となります。 今日特に、イエスについて証しすることは、勇気と忍耐が要求されています。 そして「全く恐れることが無駄だ」と、直ぐそばに一緒におられるイエスは招いています。
私たちは光の子らと呼ばれています。 暗闇を照らし、また追い払うために神の力が私たちを満たしています。 つまり、私たちの生き方を明らかにすることが必要です。 罪の戦いに対して神の恵みが私たちに完全な勝利を保証すると、聖パウロは私たちに思い起こさせます。 私たちは永遠に向かって、救い主であり、あがない主であるイエスに恐れずにより頼みます。 イエスの「御言葉が私たちの道の光」(参照:詩篇119,105)であり、そばにおられるイエスの現存が、どこへ行ってもいつも私たちが守られている確信を与えています。イエスは 「代価を払って私たちを買い取られたのです」(参照:1コリント6,20)。 イエスはご自分の財産の所有者として、私たちを必ずきちんと守られるでしょう。
「人々を恐れてはならない」とイエスは繰り返し言います。 なぜなら、人々は私たちの体と生き方にしか害を与えられないからです。 私たちの価値となっている、つまり私たちの魂が味わっている永遠の命の希望を誰も、どんな人間的な力や圧迫も滅ぼすことができません。 迫害された人は、迫害する人よりも偉大です。 拷問された人は、拷問する人よりも優れた人です。 殺された人は、彼を殺した人よりも立派な人です。 「だから、恐れるな。 あなたがたは、たくさんの雀よりも遥かに勝っています」とイエスは教えています。 私たちの上に注がれている父なる神の目を離すことなく注がれている眼差しにより頼むので、私たちは何をも、誰をも恐れません。
「体を殺す人を恐れるな。 魂を滅ぼす者を恐れなさい」とイエスは教えています。 「魂を滅ぼすこと」とは、いったいどう言う意味でしょうか。 それは「信仰を失うことだけが私たちの恐れでなければならない」という意味です。 終わりまで、つまり死ぬ時まで信仰に生きることができるかどうかについてが、私たちの絶え間ない心配事でなければなりません。 神との繋がりなしに生きることがないように、また「神を捨てる誘惑に陥らせないように」と毎日主の祈りを唱える時、私たちは切に願っています。 ですから神の愛の内に親しく、強く留まる恵みを絶えず祈りましょう。 私たちが忠実に、謙遜に信仰に生きる力と助けを聖霊に願いましょう。 そして私たちは死を迎える日まで、即ち、私たちはイエスと顔と顔を合わせて出会う時まで、神の母、私たちの母である聖マリアが私たちのために執り成してくださるように願いましょう。
迫害されていたフィリピの信徒たちに、聖パウロは喜びの内に生きることを強く勧めました。 また「重ねて言います。 喜びなさい。 あなたがたの広い心が全ての人に知られるようになさい」(フィリピ4,4)と、言ってフィリピの信徒を励ましています。 ですから、私たちもキリスト者であることに誇りを持ち、その喜びを隠さずに皆に示しましょう。 なぜなら、預言者ネヘミヤが教えたように「神の喜びが私たちの城壁ですから」(参照:ネヘミヤ8,10)。 アーメン。
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